小松島と花水木







「日本での花水木」の頁で紹介しましたように、花水木は日本とアメリカの 友好の証として、アメリカより贈られたものですが、残念なことに花水木は あまり大切にされませんでした。
それを危惧した新聞記事がきっかけで小松島に花水木植樹が始まりました。
ここでは小松島に花水木が植樹され、小松島市の花になるまでの道のりを紹介します。








 小松島に花水木登場
 市民会館と花水木
 花水木と街づくり











小松島に花水木登場


日米友好の証として交換された桜と花水木。
アメリカで咲き誇る桜のみごとな姿とは対照的に、ほとんど日本で愛されなかった花水木。
この、日米の国民性と両国民の功徳心の差を糾弾されたような事実を知って、ショックを受けた 青年会議所(JC)の一メンバーは、数十年ほど前JCでの内部研修の席でこの話を披露しました。
そして他のメンバーの関心を引きつけましたが、結局その後何らの具体的な行動に 移らないまま記憶の隅に押しやられ、数年の月日が経過しました。


昭和五○年、各地で還境美化、緑化運動等が盛んに提唱され、JCでも全国で重点テーマに取り上げられていました。小松島JCでも、市内目抜きの益右衛門堀の徹底的清掃などの事業に取り組みました。このことは翌五十一年にも再度実行され、鯉の放流なども試み、それなりの成果はありましたが、下水道の建設などの施策がない限り根本的な解決とは成り得ないと再確認し、壁にぶつかってしまいました。


そして同じ年、還境美化の一還として、市内の植樹運動にとり組もうという計画がありました。
「どんな木を、どんな方法で」と思案していたところ、前述のJCメンバーが、再度、そして久しぶりに「花水木」の話を持ち出してきました。
時あたかも、アメリカ合衆国建国二百周年のアメリカブーム。
タイミングよく朝日新聞ではアメリカの国花、ハナミズキとして大きく紹介記事が載りました。
JCメンバーは新鮮な感動を覚え、「よしこの木を小松島に大々的に広めよう」。


しかし、単にJCがこの苗木を買ってきて配付し、家庭の庭や、街路などに植えるだけでは、資金的にも、とても運動の永続きはできません。
市民の方に一人ひとりお願いして、これを買って頂いて、育ててもらおう。できるかぎり公共の場所へ植樹し、新しいまちづくりに市民自らの負担と参加を呼びかけよう。
徐々にビジョンが出来始めました。
しかしその時、花水木がどんな木か?どんな花が咲くのか?JCメンバーの誰ひとり実物を知っている者はいませんでした。

「小松島ではたして育つだろうか?」

こんな状態ではとても他の人々に頼める訳がありません。
苗木を捜すこと。そして試植すること。最初にこの事を実行することを決定し、四国にただ一ケ所宇和島にあった七○センチメートル位の苗木をとり寄せ、四月、市内各小中学校その他に約五○本試植しました。

このとき初めて花水木が小松島へ登場しました。









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市民会館と花水木


翌五十二年、日本青年会議所では「自治意識の高揚」を基本テーマに設定しました。
小松島JCでは、この「参加と連帯の精神」を実践する為に、常に必要を痛感していた市民会館の建設促進運動を起そうと計画しました。
具体的には、政治や行政へのアプローチ、各種団体への働きかけ、運動のPR等通常考え得ることをやってはみましたが、なかなか他に妙案が浮かばず、何といっても資金の問題が大壁のように立ちふさがってしまい、運動の理解は得られても、誰からも結局言葉だけの応援を受けるところまでが限度となりそうでした。
直接的に寄附をお願いして廻っても多少の成果はあるでしょうが、とても実現には程遠いでしょうし、むしろ敬遠されて運動そのものが継続できなくなる危険があります。
しかし考えてみると、これは当初から当然わかっていたことで、この運動はひとりJCが具体案を建てることではなく、皆に必要性を理解してもらい、実現への具体策に衆知を集める機運を盛り上げていくことこそまず必要なことなのです。
市民会館に限らず、自分達のまちを良くする為に、自らが積極的に参加していく真の市民を一人でも多くすることが重要なのです。言いかえれば、提案の価値の優先順位を市民的な基準で上位に上げる為に、積極的にアタックすることでもあります。そこで、小松島JCで出未得ることで、最も有効な方法は何かを考えることにしました。

五十一年、試植した苗木は立派に根付き、すくすくと成長してきました。
そして、金磯町の多田家に可憐な花を咲かせている大木があることも知りました。


「小松島でも花水木は立派に成長する。」


これなら皆にも推薦できる。メンバーは自信を持ちました。
突然「花水木植樹と市民会館建設を一つの運動としてやったらどうか」アイディアは全くの予告なしに提案されました。
JCメンバーは瞬間にこれを理解し、吸取紙に清水が惨み入るような快感に酔いました。
そして“花水木、一本に託そう市民会館”のキャッチフレーズが生れました。
メンバーの頭の中をかけめぐったものを、図で表わしたものが、このフローチャートです。


花水本の苗木を市民のみんなにどんどん買ってもらおう。
それを庭に植え育ててもらおう。
買ってもらった花水木を街の通りに植えてもらおう。
花水木通りをつくろう。
苗木の提供者には運動の提唱者となってもらい、並木の一本一本にその名札をかけよう。
手入れは市民ぐるみでやろう。
木を大切にする心を、街を良くする心を子供達にも植え付けよう。
市のイメージアップを計ろう。
売り上げの浄益金を市民会館の為に役立てよう。
花水木音頭をつくり、花水木まつりをしよう。
国際親善にも結びつけよう。
花水木が咲き誇る中に市民会館を建てよう。


正直言って、不安はありました。しかし、JCメンバーはただ花水木の苗木一本に託してロマンを語り、「夢を買って下さい」とがむしやらに進んでいくことにより、運動の盛り上りは本格的になっていきました。

第一回のキャンペーンは、多数の市民の方々のご協力により、幼木一五○○本の販売と並木の植樹も計画 どおり実行、又百余万円を市に寄贈することが出来ました。これを契機に、市は市民会館建設基金条例を制定しました。
しかし、本格化した花水木運動にも色々なアクシデントはありました。持に、52年に販売した幼木については、苗木そのものと植樹時期が悪かったのか、枯れてしまったものがかなりの数にのぼりました。
JCでは、これを一本一本弁償すべきであるとの意見も多数出されましたが、この運動の主旨をいただき、又おわびもかねて、JC独自の予算をもって53年4月、グランド周辺に成本200本を植樹しました。
そして、翌年も又l、500本の花水木が市民の方々のご協力により、市内の各所に植樹されました。

こうして徐々に花水木が小松島に浸透してゆき、
1988年(昭和63年)、正式に小松島市の花として登録されました。

小松島に初めて花水木が植えられて12年目のことです。








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花水木と街づくり


芹洋子の歌『花水木の季節』の一節に

「愛する故郷の町は花水木の花の白さがいつでも私を迎えてくれる」

とあります。

街路に公園に商店の鉢植に花水木がいっぱいなり、そこに住む人達が、この木をかわいがるようになった時、花水木の街として人の心をうつでしょう。
そこには夢とロマンと目標のある街が生れます。
大阪に東京に住む徳島県人は誇りをもって、我が故郷を自慢するでしょう。
ワシントンのポトマックの桜に匹敵する街が生れるでしょう。
商店街は「花水木セール」を、住民は「花水木祭」を、カメラ同好会は「花水木写真展」を始めるでしょう。
蘇える小松島の街、それは花水木に装われた街として、日本に、世界に轟きわたることでしょう。
若者は夢を持ち、我が小松島を愛しつづけることでしょう。













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